
セーラー服を着た女子高生という永遠のモチーフは、世間に媚びるための姿としてではなく、自らの少女時代・少女性を忘れずに戦いを挑むための戦闘服として、毅然と描かれる。
イラストレーション、ポップカルチャーを経て更に先へ進むた めに産み落とすビジュアルワークは、この時代に鮮烈な印象と強いメッセージを投げかけることだろう。
退路を経った女子高生の目には確かな輝きと意志が存在する。
「命の塵」 2009年 / 97.0×130.3cm / キャンバスにアクリル・油絵具

少女であること。それは望んでも叶わぬ理想であり、一方では否が応でも逃れられぬ現実でもある。ここで言う少女とは、まだ自我の目覚めから間もない幼児としての年齢を指すのではなく、自らの年齢、性別、世の中における存在意義や偏見を自覚し、漠然とした夢や目標を探るのもままならない状況にある女性を言い、一概に年齢や服装等で定められるものではない。だが一般に(この「一般」こそが曲者なのだが)少女と呼ぶ場合、日本では特に古くから幼少女を偏愛する傾向から文化が脈々と受け継がれ、昨今でもまさに女子高生然としたアイドルの集団(48人以上居るとか?)がもてはやされるなど、ステレオタイプに陥ったままの概念に縛り付けられている。アイドルはアイドルとしてのあるべき姿を自覚して振る舞い、制服を身に着ける大人未満の女性達は、自らを便利に定義するカテゴリーに甘んじ、それが許される限りで楽しもうとする積極性すら感じさせる。
だが大槻香奈のように、そもそも「少女」であることからして受け入れがたく、ましてや一般に押し付けられる女子高生のイメージなどは、自らのその時代においては苦痛でしか無かったと振り返る。当たり前のことであるが、誰もが通過する年齢や、適用されるシステムだけでカテゴライズされることなど、本質的に人間は求めていないはずなのだ。だがしかし、弱冠二十歳にも満たず世の中の右も左も分からぬ女性としての存在において、周囲の偏見に負けじと己の振る舞いや思想の萌芽をアピールすることは、容易に出来る事ではない。だから結果として自己の発露は己の内面に自己嫌悪として消化不良を起こし、やがて振り返ってみることすら恐ろしいほどの時代として自己の中にひっそりと仕舞い込まれることもしばしばであろう。それを過去の苦い記憶としたまま今を生きる女性達がほとんどの中、大槻香奈はその苦悶を逆手に取ったかのように、今の時代にビジュアルワークを産み落とす原動力としている点で非常にユニークと言える。そして大槻がこのような美術ギャラリーと呼ばれる場所で企画展示を行うまで、その制作はイラストレーションとして成立すると思われて来たのだが、作家自身は自己の純粋な表現の欲求を掘り下げるため、あえて偏見と苦悩に満ちた美術と呼ばれる世界へと入って行くことを決意したのである。まるで女子高生が女子高生であることを漫然と受け入れることを拒むかのうように…。
大槻にとっての永遠のモチーフである「少女」は、大方の見られ方においては世間一般の期待に応えている様にも見え、実は全く媚びていない。彼女達は一様に笑わず、真っすぐと前を見据え、簡単には表情をすら読み取らせない。あくまで女子高生として見えるのは、着ている制服(セーラー服)と幼い表情からであって、彼女達自身が「女子高生」であろうとしているとは限らない。むしろ作家の意図としては逆説的なメッセージを推して計るべきではないかとすら思えるのだ。即ち、この制服は「あなた達大人に都合の良い服装として」着ているのではなく、彼女達がこれから立ち向かわなくてはならない相手(すなわち漠然とした社会、環境、大人、「一般」という定義など)に挑むための戦闘服であると言う事を。
それはそのまま大槻香奈の姿勢としても理解することが許されるのではないか。「女子高生」「少女」というモチーフを扱い描く以上、必然的に生じる偏見や誤解のリスクを承知の上で、あえて選択して戦いを挑む作家のスタンスには、世間に媚びるどころか生きる事に対して真摯に向き合い続けるストイックな内面が窺い知れる。だがその苦悩をそのまま見せるのではなく、「少女」にまつわるポジティブなイメージをも描き切ることで、大槻のビジュアルワークは二度と訪れることのない純粋な少女時代を想起させるほど、切実で魅力的なものとして誕生するのである。
少女はやがて大人の女性として、母として、戦い続けることになる。大槻の描く少女の姿にあらゆる女性が年齢を問わず自己投影し、自らの内に仕舞い込んでいた少女としてのアイデンティティーを強く意識する事は、作家が正当に期待する出来事だと言っておこう。。
